うめぼし
   〜三日三晩の土用干し〜




 冷房の効いた室内で、井沢はふと自分に腹が立った。
 自筆で記入していた書類もそのままになる。
「…先生?」
 そのポーズのまま約3分間じっとし続けたものだから、斜め向かいの席の秘書 までいぶかる始末。
 結局コーヒーブレイクにすることになり、井沢は窓際に立ってルーバーの隙間 から外のまぶしい日差しを眺めていた。
 思考はつい、仕事場から離れる。
――もう半年は軽く経ってるし。
――いつもこうやって振り回されるばかりで。
――どこでどんな悪さをしてるんだか。
 何かの隙にいつも心をよぎる思いが、どれも自分勝手なものであることに、井 沢は気づいてしまったのだ。そして、一度気づいてしまったことは簡単に消せな かった。
――あいつを責めるなんてお笑いだ。俺はいつも自分からは動こうとしないで、 ただ待っているばかりだったんだ。
「卑怯者だな…」
 口の中でつぶやいて、井沢は席に戻った。が、さっきから進めていた仕事は脇 へ押しやり、パソコンに向かう。
 居どころさえ誰にも知らせずにいつも気ままに動き回っている男をこちらから つかまえるのは不可能、とただ愚痴っていたズルイ奴。
 井沢はその自覚を今かみしめて一つの決意を固めた。
「俺だってその気になれば追跡くらいできる。今までそうしなかったのは、あい つとの関係にあぐらをかいていたからだ」
 行動パタンは身にしみている。あの性格も、もちろん。
 ならば計算してデータを分析して、なにがしかの答えは導き出せるはず。
 少なくとも、この自分にだけは。
 井沢は新しい悪戯を思いついたように気分がじわじわと高揚するのを感じた。 「――三日三晩の土用干し」
「はい?」
 この法律事務所ではついぞ見せたことのない殺気立った緊張感を漂わせてネッ ト検索にかじりつく井沢の様子に少々怯えさえ見せ始めていた秘書は、その時井 沢がぽつりとつぶやいた言葉に唖然と目を見開いた。





「い、い〜ててて! 離せよっ」
「まんまと掛かったな」
 ここは井沢の秘密の隠れ家の一つ。都内某所のワンルームマンションだった。 「な、なんでわかったんだよぉ…」
 珍しく逆転した立場に井沢はにやりとする。
「この時期におまえは間違いなくここに来る。そう読んで待ち伏せてたからな」 「だからー、なんで!」
 井沢は目でキッチンの床収納トビラを指した。
「あの梅。勝手に忍び込んで仕込んでいただろう。となると、土用干しのために 必ずここに現われると踏んだだけさ」
 梅干だけでなく秋には果実酒、冬にはキムチ…という具合にこの井沢の別宅を 勝手に保存食蔵にしている反町である。井沢自身もほとんど足を運ばないのをい いことに占拠していたのだ。見つかることを警戒さえすることなく。
「おまえ〜、今まで一度だってそんなことに興味持たなかったじゃん! まし て、どの作業をいつやるのかなんて知ろうともしなかったし」
「ふふ、珍しいだろう」
 あっさりと確保できたことに満足して、井沢は車を走らせていた。
「ただ待ってるのも、勝手にペースを乱されるのも、もう飽きたんだ。珍しい真 似くらい、たまにはさせろ」
「で、どこ行くわけ?」
「さあな。どこまででも、気が向くとこまで」
 反町も、隣でニヤッと振り返った。
「ほーんと、珍しい。おまえらしくなくって…、そしていかにもおまえらしい」 「なんだそれは」
 崖下に太平洋の波が寄せる見晴らしのいい場所で二人は車を降りた。
「うわ、暑い!」
 冷房の効いた車内からいきなり強い陽射しの下に出て、反町は嬉しそうに叫 ぶ。草の斜面を斜めに駆け下り、またぐるっと駆け上がり、やがてはあはあ言い ながら井沢のそばに戻ってきた。
「ダメだあ〜。昔はもっと暑い所で走り回ったのになあ」
「嫌なことを思い出させるな」
 顔をしかめる井沢もそう嫌そうには見えない。用意してあったスポーツドリン クの缶を二つ車内から持ち出して反町に一つ投げる。
「ずっとそんなことをしてるとおまえが土用干しになるぞ」
「それはヤダ」
 井沢の別宅のベランダに、梅はザルに並べられて干してある。太陽を浴びて、 そして夜露に晒されて、そうして三日三晩。
「俺は食べるほうがいいもんね。食べられるほうじゃなく」
 草の上に座り込んで、反町は背後に立つ井沢を笑顔で振り仰いだ。
「あーあ、うまいタイミングで梅雨が明けて帰って来られたのに、まんまとつか まっちまうとは不覚だよな」
 こちらも不覚という表情ではない。
「しかもぴったり誕生日に」
「……」
 ぴくりと井沢が動きを止めた。
「誕生日…?」
「そうだよ」
 反町の目がゆっくりと細められる。
「知らなかったとか、言わないよな」
「知らない」
 胸ぐらをつかんで引き寄せるが、井沢も無言で見返すばかり。
「おめでとうって、言え!」
 反町はじっと睨んだ。井沢は無反応だ。
「じゃあ、愛の告白しろ」
「……」
 井沢はそらしていた目をこちらに向けた。真顔で、反町にぐいと顔を近づけ る。
「絶対に! しない!」
「俺たち、コイビトじゃなかったっけ?」
 すぐ目の前で覗き込んでくる反町を無表情に眺めてから、井沢はその頬にそっ と手を沿わせた。くすぐったそうに目を細めた反町だったが井沢はそこで手を止 める。不思議そうに反町が目を上げたその時、井沢は仄かに笑った。
「いつかコロス」
「いいね、その愛の告白」
 ふふふ、と笑ってから反町は触れるだけのキスを奪い取り、そしてぱっと身を 翻した。
「けど、コロサレル前に逃げるもんね。残念でした」
 やーい、と声を上げながら反町は走っていく。井沢は苦笑してからゆっくりと 立ち上がり、自分もその後を追いながら車に向かって歩き出した。
「まったく、ガキ以下だな。――あいつも、それに俺も」
 十数年前の、ガキだった俺たちみたいに。
 真夏の、陽射しをじりじりと浴びながら。


end