シャララ





 部屋に入ってデスクにバサッと書類を投げ出すと、若林はそれには背を向けて ソファーに深く腰を下ろした。
 両手で後ろから頭を抱えると疲労がまるで目に見える物体のように彼の体全体 にのしかかって、ひたすら重い。一度座り込むともう二度と立ち上がりたくなく なる気分だった。
「そんな顔をしていると何かあったかと勘繰られますよ、若林さん」
「…!」
 いきなりの声に若林はがばっと身を起こした。
 誰もいないはずの室内、そのドアの前に井沢が立っている。
「おい、誰も入れるなと言ってあったはずだぞ」
「…俺は例外みたいですね、暗黙の了解で」
 誰もそんな了解はしていない、少なくとも俺は本人だ…と言いたかったが若林 は不服そうな目を向けただけでまたがっくりと頭を落とした。
「おまえと議論しても無駄どころか、娯楽を提供するだけだよな」
「それは心外ですね」
 井沢は一歩前に進み出て若林の顔を眺めた。
 深くソファーに沈み込んだその体はもちろん、顔にしっかりと刻まれた徹夜明 けの疲労感が部屋の空気までも重くしている。
 井沢はそれを確認して眼鏡に手をやり、聞こえないほどの小さいため息をつい た。
「決議に持ち込めなかった分、予算委員会は紛糾しましたけどそのお陰で最後の 切り札は守り通せましたね。その存在自体も」
「おい」
 ギロリと視線が動いた。
「どこでそれを見てた。おまえは――」
「そう、部外者です。だからこそ外から判ることもありますからね」
 天敵。表立って敵対するどんな政治家にも勢力にも冠せられることのないこの 名が頭をよぎる。弱点をつかまれているわけではない。顔と顔を合わせて、ただ それだけで本能がそう叫ぶのだ。
「帰れ」
 睨み付けながら若林は唸った。40年以上もの付き合いとなるこの男に向かっ て。
「一介の弁護士に、過ぎた評価ですよ、それは」
 井沢は薄く笑った。それ以上近づく様子はない。
「そういうわけで俺も実は徹夜明けです。このまま事務所に戻って書類の整理が 待ってますからその前にちょっと頭をすっきりさせておきたいんですよね」
「あぁ?」
 若林が呆気にとられるのをよそに、井沢はドアを振り返った。遠慮がちなノッ クがあって、細く開いたその隙間から総理付きの秘書官の顔がちらりと見えた。 井沢はその手から差し出されたものを受け取ってこちらに向き直る。
 それは盆だった。2つ並んだガラスの器に窓からの光がチラリと反射する。
「俺からの差し入れです。一緒にここでいただいて行きます。どうぞ、若林さ ん」
「これを…か?」
 目の前に差し出された盆にはカキ氷が2人分乗っていた。赤いシロップをその 底に沈ませた、ごく定番のカキ氷である。
「冬だぞ、今は。それに…」
「しゃきっとしますよ」
 そう駄目押しをされて若林は反論を諦めた。器を取り上げ、半ばヤケっぱちな 勢いでがつがつと口に運ぶ。最初の一口でやや顔をしかめたが、あとは冷たさも 舌が麻痺して感じない。
 井沢も向かいのソファーに掛けて同じく食べ始めた。ひたすら無言のまま、ス プーンの立てるカチカチという音と氷を噛む微かな響きが聞こえるのみである。 「う〜っ」
「……」
 そんな中、二人がほぼ同時に手を止めた。どちらも顔をしかめて目をつぶって いる。
「来ましたか」
「…来た」
 キーンとこめかみあたりに走る鋭い刺激。わかっていてもこれは避けられな い。殊に、こんな徹夜明けの朝には。
「じゃ、代表質問、健闘を祈ってますよ」
「二度と来るな、馬鹿野郎」
 そこにはっきりと目に見える頭痛の種にすべてを押し付け切った後で二人は別 れた。
 今日も晴れ上がった東京の冬空。首相官邸の執務室には空のガラス皿だけが残 されていた。

end