大宮サンセット
「いつまでそうしてる気?」
岬は指でとんとんと椅子の背をたたいた。
背後から足音が近づいてその椅子の傍で止まる。これまでまったく聞かせるこ
とのないままだったその音が初めて存在を示した。
会議場の一角にある小さなオープンテラスには傾きかけた西日が穏やかに差し
ていた。いくつか並んだカフェテーブルの上にはティーカップが数組伏せてあ
る。
「気配を殺せるのはもうわかったから、僕しかいない時くらい顔を見せれば?」
「見せても今さら珍しくもないだろう」
やはり音も立てずに椅子を引いて若島津は腰を下ろした。岬はようやく振り向
いて視線を合わせる。
「顔を見たいわけじゃないってば。僕には護衛なんて必要ないって、見ててわか
っただろ」
「そんなことは最初からわかってる」
澄ました顔で若島津はカップを引き寄せ、ティーポットから勝手に注ぐ。ゆっ
くりとミルクを入れ、砂糖も入れ、またゆっくりとスプーンで混ぜる。
「おまえは気配を消すんじゃなく、気配を紛れ込ませるのが得意だからな。どこ
にいても、誰もお前に注意を払わないように仕向けられるんだ」
「僕は君みたいな武道家の技なんて関係ないんだから。普通に、一般人でいるだ
けなんだ」
若島津は紅茶を口に運びながらちらりと岬を見た。
「そういうことにしとこう」
「…誰の差し金?」
あくまで表情を動かさない若島津に、岬はずばりと問いを突きつけた。
「僕の護衛なんて、君一人が思いつくわけないもの」
「名前を出すとおまえの機嫌が悪くなるだろうから黙っておく」
岬は途端に厳しい顔になって口を閉ざし、それから大きなため息をついた。
「君にこんな命令ができるような人間は2人しか思いつかないから、確かにこれ
以上は聞かないよ。でも」
岬はまたこちらに顔を向けた。
「余計な気を回さなくていいって伝えといて。君ももうつきまとわなくていいか
ら」
「これは俺の勝手な道楽だ。3日間無視しててくれたんだから、あと1日くらい
同じだろ。空港までは付き合うさ」
あくまで淡々と、若島津は紅茶を飲み終える。そして真面目くさった顔で岬を
見た。
「おまえがすぐに俺を意識しててくれたのは助かったよ。俺の仕事はそれで半分
は減った」
「そういうことにしとくよ、僕も」
同じように返して、岬は苦笑を見せた。
「君も相変わらずだね」
「おまえもな」
席を立って、若島津はもう一度岬を見下ろす。
「帰国した時くらい自分から顔を出せ。そうしたら誰もこんな気を回さないん
だ」
背を向けたままの岬を残し、若島津はその場から消えた。
バルコニーの向こうの夕空にはまだ明るい光が残っている。それを岬はぼんや
りと眺め続けた。
「ほんとに…お節介なんだから」
誰の迷惑にもなりたくないという彼の配慮こそがお節介だと、無遠慮な護衛役
は言い残して行った。
「お互い、慣れ過ぎだよね」
一瞬、ほんの一瞬だけ、岬の視界に幻影が広がる。
仲間たちと駆けたピッチの上。その熱い風。
彼らの中にはいつもその残像がある。そう、お互いに。
「顔見なくたって、わかってるんだからいいじゃない」
岬は今度こそ苦笑をこぼした。
おそらく、今も見えない片隅で自分の声を聞いている男に一人話しかけるよう
に。
もちろん返事はない。返事は、いらない。
「教授、そろそろですので」
向こうから声を掛ける担当者を振り返ってうなづき返し、岬は立ち上がった。
end
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