夏が終わる





 電車の揺れが、思考を単一にし、そして感覚を和らげていく。
 つまり眠気が心地よいのだ。起きていながら眠っているような感じ?
 反町はそんなふうに自分に問いかけながら手にしていた本を閉じた。
 時間つぶしのつもりで持って来た本はあまり読み進んでいない。ちょっと退屈 な本だったなあと思いながら、視線は車窓の外につい向かう。
 もうすぐ、もうすぐ旅は終わる。
 そう、もうすぐ着くのだ、あの懐かしい地に。
 日々の生活に埋もれながらも、思い出はいつもあの頃に戻っていく。熱いフィ ールド。仲間と走ったあの緑のフィールドに。
 苦しいことのほうが多かったと知っているが、その中にあったたまの楽しさば かりが記憶に残っているのだから人間というのは都合のいいものだ。
 記憶の中のかつての仲間の顔が順に流れる。懐かしいような苦いようなさまざ まな色に染められた思い出の断片。
「サッカーからすっかり遠ざかっちまったからなあ」
 座席に座った自分の足先を伸ばして目をやり、思わず苦笑する。もしかすると ボールを追うどころかただ走るだけでももう思うようにはいかないだろう。
 駅に到着して小さな荷物を手にホームに降り立つ。
 外の空気がまだ夏が終わりきっていないことを告げた。駅の近くの木立ちでカ ナカナが鳴く声が聞こえている。空の色だけが真夏の明るさを薄めて次の季節に 移行していっていることを感じさせた。
 バスは学校の門の前に着いたが、反町の足は自然にグラウンドに向かった。休 み期間でも東邦の各スポーツ部は賑わっていた。その間を抜けて敷地の奥のサッ カーグラウンドに近づく。
「変わってないんだろうなあ」
 遠目に、グラウンドを駆け回るいくつもの黒い姿が見えた。彼自身着続けたあ の黒いユニフォームだ。どうやら紅白戦らしく、ビブスを身につけた選手たちが 入り乱れてゴール前で攻防を繰り広げていた。
 反町はフェンスのこちら側で足を止め、目を細めてその光景を見る。真剣なそ の後輩たちの姿に、かつての自分が、そしてチームメイトの顔がだぶって見える ようだった。
 いつもフィールドを支配していた厳しい大声が耳に蘇る。いつも俺をシニカル な視線で見守ってフォローしてくれたヤツも、ありえないくらい暑苦しい長髪で 不気味に無表情にゴール前にいたヤツも…。
「誰が不気味だ」
 いきなり耳を引っ張られて反町はびくっと身体をこわばらせた。
「えっ…まさか」
 耳をつかまれているので振り向けないが、その声にはもちろん覚えがある。さ らにその横からもう一人黒ジャージの人物が現われた。
「シニカルだと? そう見られているのも自分のせいだと認めない気だな」
「島野ぉ〜」
 反町は子供のように手をジタバタと動かした。
「た、助けて。健ちゃんが怪力で俺を…」
 皆まで言う前に耳が解放され、同時にドンと背中を思い切り突き飛ばされる。
「年寄りじみた独り言にひたってないで、とっとと着替えて来い」
「えーっ」 
 とととんと前に数歩よろめいてから反町はくるりと振り返って抗議の声を上げ る。そこに立つ若島津は、ありえないくらい暑苦しい長髪を今日は後ろで一つに くくっていた。
「俺、今学校に戻ったばっかだよ。いきなり練習って…」
「チームは2年生体制になったけど、俺たちは俺たちのメニューがあるんだよ。 この後は俺たちの紅白戦だから、急げよ」
 島野ももちろん容赦はしない。外部進学組は部活を引退している時期だが、幸 いというかあいにくというか、このサッカー部の3年生は皆そのまま持ち上がり の予定だ。つまり、部活は現役。
「勝手に夏休みを延長したのはおまえの勝手だ。体もなまってるだろうからさっ そく動かしてもらおうか」
「…長旅の疲れを取ってからにしてくんない?」
「杉並からここまでの移動くらいで長旅になるか」
 二人がかりで責められて反町はがっくりとうなだれた。しかし。
「こら〜〜っ、反町!」
 まさに条件反射。反町はその怒鳴り声に跳ね上がって駆け出した。さっきまで 後輩たちをびしびしと指導していたその声だが、一度自分に向けられれば決して 逆らえないことを誰もが知っている。
 せっかく回想ごっこに浸っていた反町の時間もあっという間に強制終了されて しまった。
 一目散にロッカールームに走って行った反町の上には、あと2日で終わる夏の 空が広がっていたのだった。


end