暗闇でぼんやりと目を開くと、その闇の中に白く何かが浮かび上がっているの が見えた。
 翼はまだ眠りの中から目覚めきっていない体と頭で、何だろうという疑問だけ をぷかりと浮かび上がらせた。
「この香りって…」
 自分がいるここ――どこだっけ――が一つの強い香りで占められている。
「…寝てろ」
 うつぶせの体勢で首を伸ばしかけたその背後から手が伸びて、翼は引き戻され た。ぱふ、と枕に再び顔が埋まる。
「あんなものは、無視だ」
 ちらりと、その枕から目だけ背後に向けると、もぞもぞと動く影がある。
「でも」
「…あれはただのみかんだ」
「みかん…?」
 丸く白く見える影は闇の中にいるせいだった。みかんの色はどこかに流れて行 ったのか。
 ベッドサイドテーブルの上になぜか1個だけ置かれたそれに翼はなおも手を伸 ばそうとする。
「あっ」
 今度は体ごと抱え込まれて翼の視界は完全にさえぎられた。
「もう…若島津くん」
「いいから、寝ろ」
 眠そうな声が、自分の背中から響く。背後から覆いかぶさる大きな体は重くは あったがそれ以上に暖かさが心地よくて、翼は自然に眠りの淵に沈んで行った。







ミカンズのテーマ







「あーあ」
 そして朝。
 まだ早朝だがカーテンを開けたままだった部屋にはもう光が満ちている。ベッ ドの上であぐらをかいた格好で部屋の中を見回し、翼は呆れ顔になった。
「みかんだらけだ〜」
 大きなベッドとあとは椅子が2つほどあるだけのシンプルな白い部屋に、その 隙間をすべて埋め尽くすかのようにみかんが散乱している。床に、窓辺に、棚に まで。
「そう言えば、来た時からみかんがいっぱい置いてあったけど」
「…うう」
 身を乗り出そうとしたが翼は動けなかった。まだ背後から彼を引き止める重い 体。
「若島津くん、もう離してってば」
 こちらも同じくあぐらをかいて、ベッドが寄せてある片方の壁で体を支えてい る。そして頭をがくりと伏せたままやっぱり翼を背後から抱きかかえているの だ。白いタンクトップに白いショートパンツ姿の翼に対し、こちらは絣模様の浴 衣だ。ただし、帯も緩んでだらしなくはだけている。
「ええと、昨夜見た時はこんなじゃなかったと思うけど」
 いくつかはテーブルに置かれていたかもしれないが、これほどの数のみかんが あったこと自体気づかなかった。見れば緑のプラスチックケースが2つほど部屋 の隅に転がっている。この中身がこうなったと?
「君がやったの、これ、全部」
「う〜」
 まだ半分以上寝言の状態だが、若島津は髪をばさりと翼の肩にかぶせたまま一 応返事はしているつもりのようだ。
「もう…」
 酔っ払い並みの若島津の寝起きの悪さであった。
「ね、起きてよ」
 なんとか手を伸ばして、枕元に崩れ落ちてきていた数個のみかんを自分のほう にかき集めてみた。
「普通のみかんじゃないなあ」
 手にとって見るまでもなく、それは温州みかんよりやや大振りで皮も固く、そ して重い。色もみかん色ではなくもっと明るい黄色をしていた。
「ほら、若島津くん」
 ばらばらと若島津の脚の上にわざと落としてみる。
 若島津は片方の手を翼から離してその一つをつかんだ。そしていきなりベッド の向こうにそれを投げつけた。
「あっ、駄目だよ!」
「みかんの、バカヤロー」
 ゴツンと意外に重い音を立てて床に転がったみかんに翼は首をすくめる。
「まさか、これ全部投げたの、昨夜」
 翼は昨夜先にベッドに入った。まだ夢うつつのうちに若島津も続いて横になっ たような記憶があったが、その間に若島津がこういうことをしていたのには気づ かなかった。
 床にぶちまけたか、それとも今のように1個ずつ投げたのか、それは本人に聞 かないとわからないが、少なくともそういう手荒な扱いを受けた大量のみかんた ちはなお一層その皮から立ち上る香りを高くしたのだろう。部屋はもう芳香剤な ど比較にならないほどの柑橘系の香りに満ちている。
 夜中にふと目が覚めた時の違和感はこれだったのかと翼は今思う。
「とにかく片付けないと」
 離してくれない手を片方ずつ自分の手でよいしょとはがす。大きくてごつごつ したキーパーの手。翼は一瞬、つかんだその手に目を落とした。
「わっ!?」
 油断したその瞬間を待っていたかのように、いや、それとも相手が動いたこと に対する反射的行動なのかもしれないが、若島津は両腕に翼をつかまえて閉じ込 めてしまった。
「わあ〜、いたいいたい、痛いよー!」
 半分は無意識だったらしく、つまりは力を全開にして抱き締めたため、翼は窒 息しそうになった。思わず上げた悲鳴でようやく我に返って力を緩める。
「もう…」
 やっと楽になってさらに背後を振り返る分の余裕もできて、翼は相手を睨ん だ。ゆるゆると顔が上がってその乱れた前髪の間から若島津の目が見えた。
「目、覚めた?」
「たぶんな」
 そう言うのと同時に、自分の目の前の翼の頭を押さえて覆いかぶさる。
「あっ…あ〜」
 びくんと体が跳ね上がりかけるがもちろん怪力でそれを許さない。
 たっぷりとキスを堪能してようやく若島津は翼を離した。翼は肩で息をしつつ 赤い顔で叫んだ。
「いっ、いきなりこんなおはようのキスはダメっ!」
「ならもっとじっくりと?」
 再び近づく若島津の顔を押し戻して、翼は必死に逃れた。
「おっ、俺のことより! このみかん、片付けないとダメだよ! 叱られるよ、 日向くんに!」
「…そんなことはいい」
 いや、絶対良くない。なぜならここは。
「日向くんの家に勝手に来てるんだから、俺たち!」
 そう、ここはイタリアはミラノ市内にある日向の部屋だった。大学からほど近 いいわゆる学生街にあるが、学生はとても住めそうにない高所得者用アパートな のだ。
「勝手に泊まることになったのは俺たちのせいじゃない。勝手に留守をした日向 さんのせいだ」
「そ、そうかもしれないけど…」
 翼もそこは否定しない。日本とスペインからそれぞれ別口でやって来た彼らは 昨日まんまとここで鉢合わせし、しかも部屋の主がどこにもいない状態だと知っ たのだから。
「だからってみかんに八つ当たりは可哀相だよ、もう」
「翼、こいつがなんて言うのか知ってるのか」
「え? オレンジ?」
 翼はベッドの上にまだ転がっている数個に目を落とす。もちろんオレンジでな いだろうとは薄々思っているのだが。
「こいつはな、日向さんが入団した年にミランのファン連中が面白がって日本か ら取り寄せて栽培を始めたものなんだ。宮崎から、わざわざな」
「宮崎…。てことは?」
「気候が合ったのかなんだか知らんが何年かかかってやっと収穫できるようにな ったのが去年かららしい。とりあえず栽培しているのはこの近郊だけだ」
 二人の会話が止まる。窓の下、こんな時間から車のエンジン音が賑やかに響い ている。一緒に、陽気なイタリア語の叫び声も。
「ン〜ン〜ベッルォ!」
 歌うようにそう繰り返しながら人の気配はこの建物に入っていった様子だ。
「…俺、この季節にここに来たのは初めてなんだけど。もしかして……」
「ああ、初物ってやつだ。今年最初の収穫を捧げにやってくるのが習慣になっち まったとか…」
 しかもその栽培農家は一つではない。日をずらしてほぼ毎日「初物」が届く。 「日向くん、これを俺たちに押し付けるつもりで…呼んだわけ?」
「間違いないだろうな」
「オフだから遊びに来いなんて、なんかちょっと変だなって思ったんだよね」
「去年はここまでひどくなかった。ファンが暴走してるってことだな」
「愛されてるんだよ、これだけ」
 部屋にあふれるファンの愛情たち。若島津は不機嫌そうにそれを見やった。
 何かの急用で彼らを二人きりにせざるを得なくなった日向が、まるで牽制する かのように残していった大量のみかん。これを牽制と感じること自体が下心のあ る証拠だと、若島津は心の中で自嘲した。
「こいつが日向さんのアリバイならしかたない。せいぜい八つ当たりしてやる さ」
 顔を見合わせると自動的にその気になるらしい若島津が再び迫ってきたが今度 は翼は抵抗しなかった。
「食べてもいないのに、味がする」
「香りがしみついちまったな。残念ながら」
 壁の内線電話の呼び出し音が、おそらく荷の到着を知らせようと鳴り始めるが もちろんそれは無視。
「若島津くん、もしかして――ヤキモチ?」
「かもなぁ」
 まだまだフルで動き始めていなさそうな若島津の反応だが、キスだけはかなり 本気。
 なにしろ、翼はアウェーでもまったく気にしないようだから。
「おまえが日向さんの残り香をつけてたら、そりゃ許さないさ」
「でも君にもついてるよ、残り香」
 キスの合間に、くすくすと続く会話。
「みかんにヤキモチって不毛じゃない?」
「わかった、とりあえずは無視でいく。ま、後悔させてやるさ」
 みかんにまみれて二人は勢いよくベッドの上に大の字になった。
 どうせこちらもオフ。部屋の主を無視して占拠する決意を固める。
「で、これの食べ方は?」
「ああ、任せろ。皮はナイフでリンゴみたいにくるくるむいて中の白いのごと輪 切りにする。
それをひたすら食らう。あ、皮はマーマレードにできる」
「へえ、変わってる」
「いっそ酒にもしちまうか」
 外ではまた軽トラックの音らしい。本日の第二陣だ。
 イタリア育ちの日向夏のシーズンはこうして始まったばかりだった。

end