正夢





 橘のにほふあたりのうたた寝は 夢も昔の袖の香ぞする


「えっ…?」
 翼はどきりとして足を止めた。今の声は…。
 振り返ると、さやさやと揺れる枝の向こうに人影が見えた。木陰の石垣の上で 片足を抱えるように座ってどこか遠くを眺めている横顔。
「――日向くん?」
 逆光の中でその輪郭が柔らかく滲む。髪が風にあおられて、キラリと光を弾い ていた。
 今までに一度も見たことのないその表情に翼は理由もなく不安を覚えた。それ でもその横顔から目が離せない。無意識に口の中でつぶやいた声が風に乗って届 いたのか日向がこちらを振り返った。
 こちらを見る視線がなんだか優しい。翼は戸惑う。その不安感を打ち消したく て、言葉は確認の形になった。
「さっき、何か言ったよね?」
「ああ」
 日向は口元に笑みを浮かべた。
「おまえに送った歌なのに、答えは?」
「ええっ?」
 思わず一歩引きかける。
「歌って――歌って、さっきの和歌?」
「そう。さあ、返歌は?」
「な、何言ってるの、日向くん……」
 翼の声が消えそうになる。日向が言っていることがわからない。
『ミカンの花の咲きほころぶ近くでうつらうつらしていると、その夢の中に昔の 想い人の懐かしい香りがただよってくる――』
 ああっ、歌の解釈までし始めちゃったよぉ…。翼は目の前がくらくらし始め る。
 ざざっと風が通って、白く小さな花が日向の周りをくるくると舞い散って行っ た。
「どうしちゃったの、ねえ、日向くん」
「気に入らなかったか? じゃあ、小野小町はどうだ?」
 またふいと遠くに目をやって、日向は空に手を伸べた。持っていた緑の葉がふ とその指先を離れて風にあおられながら飛んでいく。


 思ひつつ ぬればや人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを


 翼はとうとう力が抜けきってその場にへたりこんでしまった。日向の声があま りに甘く、その姿ごと溶けていきそうなのだ。
 こんなことって、ありえない。日向くんが、変になっちゃったよぉ…。
「さあ、翼…?」
「――そ、そんな。うそでしょ〜」
 ぐるぐると目が回る。翼は叫びそうになるのを必死にこらえた。
「翼くん、翼くん、大丈夫?」
 別の声が聞こえ、翼はそちらに向き直ろうとした。
「すごい汗だよ。うなされてたし」
「あ、岬くん?」
 タオルで岬が額をぬぐってくれていた。翼はその感触に自分が目覚めたことを 知る。
「ああ、でも汗をかくってことは熱も下がってきたのかな。一度着替えようね」  まだ半分ぼーっとしたまま顔を動かすと、ベッドの脇で岬がにっこり覗き込ん でいた。
「気分はどう?」
「よく…わからない」
 岬はうなづいて水差しを持ってきた。それから体を支えて起こし、コップを渡 す。
「おまえでも風邪をひくんだな」
「小次郎」
 ドアのところからかけられた声に、岬はそちらを不機嫌そうに振り返った。部 屋に入ってくるでもなく、日向がドアに寄りかかっている。
「岬をあわてさせるほどの熱を出すのはもうやめておけ。こっちがとばっちりを 食うから」
「それでお見舞いのつもり? いいから向こう行って」
「ほらな」
 日向は苦笑してみせたが、そんな岬の牽制には構わず歩いて来るとベッドのそ ばに立つ。が、目が合った翼が自分に何か必死な視線を向けているのに気づいて 怪訝な顔になった。
「どうした」
「日向くん、もうあんなのはやめて。俺、怖かった」
「あんなの?」
 岬が問い返しかけたその時、翼は突然両腕を伸ばして日向を引き寄せた。
「おい?」
 驚いた日向が見下ろすが翼は無言でそのまま日向にしがみついて離れない。そ うして顔を埋めたまま、やがてくすくすと笑い声が漏れ始めた。
「…よかったぁ。やっぱりこっちの日向くんがいい」
「おい、頭が変になっちまったのか? 熱のせいで」
 翼はぱっと顔を上げた。とても嬉しそうに日向を見つめる。
「そうそう、それが日向くんだよね、いつもの」
「はいはい」
 岬がとうとう見かねて翼を引き離し、ベッドに押し込めた。どうやらまた熱が ぶり返したようで、赤らんだ顔の翼は視線がぼんやりし始めている。
「何の話だ?」
「――うつつにひとめ見しごとはあらず、だな」
 いきなり彼らの背後から声が響く。いつのまにか姿を見せていた若島津だっ た。
「なんだと?」 
 日向はもちろん、岬もぽかんとする。が、翼はかけられた毛布の下から目だけ を出してそちらを覗き見た。
「それ、返歌になる?」
 翼が小さくつぶやくと、若島津は微かに口元を緩めた。
「夢より本物がいいんならな」
「助かった。ありがとう、若島津くん」
 何を分かり合っているのか、はたからはまったくわからないまま、翼は若島津 にうなづき返した。
「おまえも日向さんも、似合わないことはしないのが一番だ。いいな」
「うん」
 それで用は済んだとばかり若島津はまたさっさと部屋から出て行ってしまっ た。不思議そうにする日向に一言だけ残して。
「あんたに小野小町は無理、ってことですよ――」
 どんなに夢で会えたとしても、本物にはかなわない。
 翼はまた眠りに落ちていったようだ。


 夢路には 足もやすめず通へども うつつにひとめ見しごとはあらず

end