ローランダー、空へ
     〜声 2009〜





 夜空にふと目を上げて、日向が先に歩き始めた。
「いい感じの夜だな」
 特に相槌を求めているようでもないので俺は黙っている。
「歌でも歌いたくなる」
「おまえが歌!」
 今度は反射的に叫んだ。独り言だとわかっていてもだ。
 日向は特に気を悪くした様子もなく振り返って俺を見る。
「なんだ、俺は歌は得意だぞ」
「得意!」
 だんだんと日本語が出づらくなってきた。ドイツ語で叫ぶぞ。いいのか。
 日向は一人で足を止めた。俺たちからは遠い夜景に向かって静かに立つ。
 俺は止めてもよかったんだ。やつのシュートなら絶対に止めにいってた。でも これは違う。
 その歌声が流れ始めた瞬間、俺は動けなくなった。
 違う、絶対にこれは間違ってる。そればっかりが俺の頭に浮かんだ。
 日向の歌だぞ。それを俺が聴いているんだぞ。
 しかも、無抵抗に。
 俺が立ち尽くしている間にも、歌声は続いていた。
 見えないさざなみのように空気が揺れている。
 俺が知らないその穏やかな旋律は、夜を震わせながらその闇へと溶けていく。 俺はなかば呆然とそれを見送っていた。
 かしり、と小石を踏む音がする。
 一歩を踏み出して日向がまた歩き出したのだ。それで俺は我に返る。歌はもう 終わっていた。
 日向は何でもないように前を向いている。俺は急いでそれを追った。
「今の歌は……」
「誰にでも聴かせるってわけじゃないぜ。俺は自分の敵として認めるヤツだけに 歌うんだ。宣戦布告だな」
「え……」
 違う意味で驚いた。
「じゃあ――翼、とかも」
「そうだな、歌ったことがある」
 日向は遠くを見ながら答える。
「一緒に森崎にも聴かせたがあいつは聴いてなかったろうな」
 そうか、森崎には荷が重かったか。日向の宣戦布告では。
「今度シュナイダーも引っ張って来い。今日の礼に歌ってやるから」
「えっ、つまり」
 日向はまた前に向き直った。俺には背だけを見せながらずんずん進む。
「お前を今日殴りそこねた分は今ので十分だ。だがあいつにはまだ貸しがある」 「日向…」
 どういうつもりだと聞こうとしたが、俺にも都合というものがある。聞こえな いように舌打ちだけしておいて、俺は後を追った。
 日向は言いたいことだけ言ったというように、足も軽い。そしていきなりくる りと振り返る。にやっと人の悪い笑いを見せて。
「お前は悪役は向かねえな。シュナイダーのほうがまだ骨があるかもな」
 こいつ、単純野郎かと思ったら…。
 それじゃ殴り損じゃねえか。
 まあいいだろう。シュナイダーなら喜んでこいつの歌を――挑戦状を受け取る に違いない。
 俺はふと思い出した。
「なら、若島津はおまえの歌を聴いたことはないんだな」
 試合の後、あいつの運ばれた病院に飛んでいったはずの日向に聞く。
 日向は振り返って、少しだけ険しい目になった。
「何を言う。いくらでも歌ってるぜ。あいつは俺の最初の敵だ」
「へ、へえぇ」
 少々間抜けな返事になってしまった。
 いや、こいつの歌をもっと聴きたいわけじゃないけどな。
 もう一度日向の背を眺める。
 それでもちょっと悔しいような、そんな気が少しだけした。



end










■オマケ■
「で、あんた何を歌ったんです」
 若島津に問いただされて日向は答えた。

 そのまま鼻歌で歌いながら歩いて行ってしまう。
 若島津はそれを見送って、心の中でため息をついたのだった。