けもの道





 とある土曜日の夕方。
「よっ」
 部屋に入るとすぐ声がかかった。松山がソファーからもぞもぞと起き上がって 三杉に手を上げる。
 どことなく億劫そうなのを見てとって三杉は笑った。
「先に帰ってたのか」
「ああ、おれっちのほうがキックオフが1時間早かったもんな」
 それぞれスタジアムから東京の自宅まで距離はあまり違わなかったから、帰宅 時間の差は試合終了時刻の差ということになる。
 松山が体を伸ばしているソファーの片方に三杉も腰を下ろした。
「ん?」
 と、すぐに松山がぴくっと顔をこちらに向けた。
「おまえんとこ、雨だったのか?」
「うん、通り雨って言うか、前半途中から降って試合後にはすぐやんだよ」
 松山はすり寄ってきて三杉の肩口でくんくんと鼻を動かした。
「かなり降っただろ、すげえ雨の匂い残ってる」
「そうかい? シャワーでちゃんと温まったから平気だよ」
 三杉は苦笑したが、松山はいきなり顔色を変えて三杉に迫ってきた。
「おまえ…ゴール前で倒されたのか! あのスタジアム、ゴールエリアの芝だけ 薄いだろ!」
「ちょっと交錯しただけで、ケガはしていないから大丈夫」
 シャワーで泥も洗い流せていたはずだが、松山の鼻は誤魔化せない。
 しかもその言葉が信用できないのか、構わずに勝手に三杉のシャツを引っ張っ て体に傷がないかの確認に必死になっている。
「あれ?」
 また何かに気づいたのか、顔を上げた松山の視線が険しくなった。
「フィーロのカプチーノ、飲んできたのか、おまえ」
 スタジアム近くのカフェ。行きつけと言うほどではないが三杉はたまに寄って くることがある。
 松山はそのまま三杉の肩を両手でつかんでその口元にぐいっと顔を寄せた。
「それになんだこの甘い匂いは…。俺の知らない匂い…ってことは……」
「ちょ、ちょっと待って…」
 完全に逃げられない体勢になって三杉もあせる。
「季節限定の新商品だな! 自分だけ食って来たのかよ〜!」
「いや、だからね…」
 どうもさっきから自分の世界に没頭している松山にはこちらの言葉が伝わって いないような。
「白状しねえとキスするぞ!」
「あ、ははは…」
 それは危ないのか嬉しいのか。
「買ってきてある、買ってきてあるから落ち着いて。秋限定のフレーバーは全種 類」
「冷やしてあるんだな、今」
 フィーロのアイスクリームはその通り、冷凍庫の中だ。
「ああ、夕食の後で食べよう。ね?」
「ふーん」
 松山は急に表情を緩めて三杉に抱きついた。
「なんだ、心配したぜ。おまえ、チームが負けるとあそこでカプチーノ飲んでく るだろ。俺はてっきり」
「ちゃんと勝ったってば。通りすがりに新製品の看板が見えたから寄ったんだ よ」
 不機嫌の理由は実はそこにあったらしい。三杉も一緒に安堵する。
「そういう君も活躍したみたいだね。終了寸前にPKとって自分で決めたんだ ろ、決勝点」
「え?」
 顔を上げてきょとんとした表情を向ける。
「なんでわかったんだ? 俺、PKの匂いしてたか?」
「まさか」
 一時間違いで終わったばかりの試合の詳細でも、ネットを駆使すれば簡単にわ かる。
 しかし松山の天然素材っぷりはおそらく誰にも真似のできないものだし、そし てしたくない。
「君だけで十分だよ、そんな能力は」
 まとわりつく犬のようなその頭をなでて、三杉はにっこりした。

end