ナンプラー日和
「えー、なんかエエ匂いすんで?」
本日も合宿所は賑やかだった。と言っても、ダイニングに入ってきたのは早田
1人。賑やかにしているのはこの男だけだったが。
「え、森崎?」
ダイニングと隣り合うキッチンを繋ぐカウンターから覗き込んで早田が目を丸
くした。本来ならキッチンは使用していないはずの時間帯だ。なのにそこで誰か
がガサゴソ動いている。
「なにしとん、自分」
「あ、見つかっちゃったか…」
森崎はエプロン姿でキッチンに立っていた。手には長ネギが握られている。早
田にまじまじと見つめられて口ではそう言ったものの、特にあわてている様子は
ない。
「キーパー練習がコーチの都合で早く切り上げられてさ、オヤツにしようって話
になったんだよ」
「なんやて〜?」
早田は疑わしげに目を細めた。
「そのわりにずいぶん手馴れてるやないか。おまえら、しょっちゅうこんなこと
やってたんか? 俺らの知らんとこで」
「まあまあ。早田にも作るから」
それで黙っていろと? 早田はダイニングの椅子の一つに掛けた。実はディフ
ェンスの練習中に痛んでしまって一足先に上がってきたのである。
「で、オヤツて、ナニができよん」
「早田はどっちがいい? きつねとたぬき」
森崎が作っていたのはオヤツというより軽食らしかった。
「好きなの言っていいよ。若林さんはきつねそばで、若島津はたぬきうどんなん
だ」
「…は?」
早田はぽかんと固まった。今、なんと?
「ちょ、ちょい待てや! きつねそばにたぬきうどん? そんなもん、あるわけ
ないやないか」
「え、どういうこと?」
今度は森崎のほうが早田のその抗議にびっくりする。
「きつねにたぬき言うたら、それでうどんとそばやないか。どっちも揚げが乗し
たるんはおんなしで」
「えっ、たぬきは油揚げじゃなくて揚げ玉だよ? 油揚げのうどんがきつねうど
んで、揚げ玉のうどんがたぬきうどん。そばも同じ」
「…嘘やろ、おい」
双方黙ってしまった。
「じゃあつまり、きつねうどんは共通だけど、あとのは関西にはないんだねえ」
「揚げ玉…ちゅうか天カス乗せたうどんはあるけどな。すうどんに天カス多めに
してもろたヤツ」
二人の前に東西の食文化の壁が立ちはだかってしまったようだ。ちなみにすう
どんとはかけうどんのことである。
「まあええわ。それで思い出したけど、関東のうどんのダシて醤油ばっかりで真
っ黒のヤツやろ。俺、よう食べんし盛りそばにしたって」
「…わかった」
かけうどんのつゆについてのコメントにちょっと物言いたげではあったが、森
崎は一応素直にうなづいた。
「ああ、旨かった」
頃合を見て下りてきた若林と若島津はあっという間に腹に収めてしまう。
「名前なんざ何だっていいんだ。旨ければな」
「そらそうやけど」
確かに、味はよかった。かけつゆについてはまた次の機会に試してみようと早
田は考えた。
「――関西にもたぬきうどんはあるんだよ、早田くん」
ダイニングの入り口の陰でひっそりと佇んでいる怪しい人影が一つ。
「細切り揚げを乗せてあんかけにしたうどんがね。ただし、京都限定だが」
ふふふ…となぜか無意味にほくそえんでいるのは、京都は伏見の出身であるサ
ッカー協会のいつもの不審者であった。このオジサンにしては珍しいことに、若
手の選手達にではなく漂ってきた美味しそうな匂いに反応したようだ。
「ほな、ごっそーさん。森崎、また作る時は俺も呼んだって」
「そんなしょっちゅうケガする気か、早田」
初めて口を開いた若島津が薄く笑う。
「なら、手伝ってやってもいいが…」
「え、え、嘘やろ。ケガはいらんて。いらんから〜!」
笑いが起きる中、若島津の妖気がドア付近に送られたのかバタン、と大きな音
が響き、指を挟んだらしき小さい悲鳴があったようななかったような。
end
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