もやのかかった夜、佐野は橋を渡ろうとしていた。
 と、向こうにぼんやりと人影が見える。
――誰だ?
 と思った時、その人影がゆらりと動いてこちらに向き直った。顔はよく見えなか ったが、その口元がにやりと歪んだのがわかった。
「ほう、今夜の獲物はなかなかいいな」
「獲物?」
 ちょっとうんざりしたように佐野は口の中でつぶやいた。噂には聞いていた気が する。
「1000人目の獲物になるのはおまえだ。ありがたくいただかれろ」
 相手は地から響くような重い声でそう宣言してゆっくりと近づいてくる。もやの 中から抜け出した相手の姿がようやくはっきりと見えた。
 大きな男だった。近づくほどに見上げる形になる。ぎらぎらとした視線が佐野の 視線とぶつかった。
「悪いけど、俺、男だから」
「なに?」
 相手は足を止め、それからじっくりと品定めするような目付きで佐野を上から下 まで眺めた。小柄で髪もやや長めだが、だからと言って女と間違われたことはな い。それを踏まえて佐野はその無遠慮な視線も余裕で受けたのだが。
 男はしかし再び近づいて来た。
「まあいい。女でも男でも俺は気にしないから」
「しろよ」
 いきなりぬっと伸びてきた太い腕から、佐野はとっさに身を引いた。空を切った 手は、しかしさらにその佐野を追って迫る。
 右にかわし、また左に。佐野は素早く動いて相手のリーチから脱出しようとする が、男の大きな体が壁となって退路がふさがれる。
「逃げても無駄だぞ」
 じりっと一歩下がって、飛び掛ってくる相手の動きをはたと見据えた。
「…!」
 覆い被さろうとしたその場から佐野の姿が消える。いや、ふわりとジャンプして 背後の欄干に飛び乗ったのだ。
「こいつ!」
 男はさらに歩を踏み出してその佐野の体をつかまえようとするが、その不安定な 欄干の上を佐野は変わらぬ身軽さでひらりひらりとジャンプでかわし続ける。
 しかし相手もその巨体に似合わぬ動きを見せ、佐野はギリギリその腕を避けるの がやっとだった。
 が、ついに。
「死角が見えた」
 男の肩越しにその上を跳び越そうとしたその瞬間だった。越えた、と思った片足 が強い力で引き戻された。
「しまった!」
 息を飲んだと同時にぐるっと視界が反転し、佐野は片足を掴まれて宙にぶら下げ られていた。
 目の前に男の顔がある。髪を乱して肩を上下させている。が、息はさほど切れて いない様子でまたにやりと笑みを浮かべてみせた。
「活きのいい奴だ。楽しみだな」
 男は丸太のようなごつい腕をぶん、と振っていきなり佐野を水に投げ込んだ。
 佐野がざぶ、と顔を出してむせているところをまた容赦なく掴み上げる。
「な、なにすんだコノヤロー!」
 再び宙吊りにされて佐野は怒鳴ったが、男はもう片方の手でそんな佐野の濡れそ ぼった髪を丁寧にかき上げ、その髪から頬へ、そして首から肩へと沿わせていっ た。
 ぞぞ、とするのをこらえて佐野は身をよじったが、男はその動きさえ利用するよ うに佐野の着ていたものをするりと脱がせてしまった。
「やめろチキショー!」
「…旨そうだ」
 そんな佐野の抵抗には一切構うことなく男は目を細めた。そしてぞんざいに佐野 を地面に投げ落とす。
「な……」
 転がされたと同時に佐野の上に何かが降ってきた。
 ねっとりと重くからみつく、むせるように甘い液体――。
「ハ、ハチミツ!?」
「…これで出来上がりだ」
 冷笑を含んだ低い声が頭上で響く。必死に頭をもたげて、佐野はその顔を見よう とした。しかし髪を伝うハチミツにさえぎられて視界がぼやける。
「さあ、遠慮なく食え、新田」
「に、新田…!?」
 佐野はびくっと反応した。
 男の声が向いた方向へ力を振り絞って顔を向けると、橋のたもとのあたり、新田 がぽかんと立っている。目を見開いてこちらを凝視しながら。
「なんでおまえがいるんだここに…」
 体は重く、もう動かせない。意識さえも薄れそうになる。
 が、そのぼやける視界の向こうで新田が動いたのが見えた。
「いいんすか? じゃ、遠慮なく…」
「え…?」
 佐野は絶句した。




「――おい、大丈夫か」
「佐野?」
 何人かの声が重なり合うのがやっと耳に届いて佐野は目を開いた。
「もう、若林くん、ダメだろ!」
 今のは岬さんの声?
「すまん、あいつがあんまり牛若丸みたいにすばしっこいもんだからつい手加減し そこなって」
「ついじゃないよ、あんな思い切り押さえ込むなんて」
「…あ」
 そうか、と佐野は思い出す。試合中だったんだ。
 目を開いた佐野に、覗き込んでいた幾人かから安堵の声が漏れた。
「動かないほうがいいぞ、まだ」
「いえ」
 ゆっくりと体を起こした佐野はぱちぱちとまばたきをする。こちらに背を向けて 岬から説教を受けていた若林が振り返ったのが見えた。
「佐野、すまん。思わずボールごとおまえを巻き込んじまって…」
 佐野は無言でその若林の顔を睨み上げた。なるほど、そうか。
 そして、気配に気づいて反対側に顔を向ける。そこには新田が棒立ちになってい た。何か、もの言いたげに。
 佐野は思わず叫ぶ。
「このバカ新田っ! おまえ、あんな想像しやがって!!」
「…あ、う」
 なぜ新田が顔を赤らめたのか、佐野の意味不明な怒りの原因と共に、その場の誰 もがあっけにとられたのだった。


end