チェリー
「すみませーん。遅くなりましたー!」
グラウンドに翼が駆け込んできた。チーム練習は30分ほど前から既に始まっ
ており、その前に単独で取材を受けていた翼だけ準備が遅れたのである。
「ああ、そのへん適当に加われ。2人ずつ組んでストレッチだから」
コーチの指示にうなづいて、翼はグラウンドを見渡した。この後のメニューを
考えてか、おおよそポジション別に固まってペアを組んでいるようだ。だが、適
当と言われてももうストレッチは始まっているわけで、そこに割り込むわけには
いかない。
「あ」
翼の顔がぱっと明るくなった。ピッチの端、サイドラインのあたりでぽつんと
座ってストレッチをしていた一人が顔を上げて視線が合ったのだ。
「若島津くん!」
他の選手の邪魔にならないように集団の外側をぐるっと迂回して翼は駆けて来
た。手を止めたままそれを無表情に迎えた若島津は自分の向かい側を指す。
「あ、うん、ありがとう」
芝生の上に両足を広げてぺたりと座ると、翼は一通り手足を動かしてほぐす。
若島津は黙ってそれを待っていた。
「若島津くん一人でやってたんだ?」
続いて手をつないで側面ストレッチを始める。
「ああ、キーパーは3人だから俺があぶれる」
「そっか」
手を組み替えて反対側。
「森崎は楽しみにしてたもんね、若林くんが来るの」
「みたいだな」
張りのある翼の声に対して若島津の声はあくまで淡々と低い。おそらく周囲の
選手たちに聞こえているのは翼の言葉だけだろう。
ストレッチメニューも時間的に遅れた分はほんの少しずつスピードアップしな
がら追いつけるところまでは行なうつもりらしい。
「さあ、次」
向かい合って大きく広げた両足を合わせる。手を伸ばした若島津に翼がちょっ
と嬉しそうな表情を見せた。
「俺、これ得意なんだ。ねえ、こういうのできる?」
まずは数回通常の前屈柔軟をしてから翼が笑顔を上げる。
つないだ手を引いてもらって地面に顔をつける代わりに、今度は上体をまっす
ぐに相手に近づける。
「……」
チュッと鼻の頭にキスをされて、若島津は動きを止めた。翼は反動に合わせて
体を元に戻し、向かい側でにこにこしている。
「すごいでしょ。体が硬いとできないんだよ」
自慢げに笑う翼に、若島津はやはり無表情だった。
「あいにく、俺も体は柔らかいんだ」
「ふ〜ん? じゃ、やってみて」
つないだ手を今度は翼が引く。若島津は同じように上体をそのまま近づけ…。
「…ん?」
翼は文字通り目をぱちくりとさせる。
「あっ、あっ、あっ、ずる〜い!」
さっと元の距離に戻った若島津の顔に向かって翼は抗議の声を上げた。鼻の頭
の代わりに触れて行った自分の唇を手の甲で押さえながら。
「どうだ、俺のほうが柔らかいだろう」
あまり動かさない表情も、目だけが笑っている。翼は悔しがった。
「おっ、俺のほうが絶対上!」
「どうかな」
若島津に言われて翼は一度離した手をまたぎゅっとつかまえて叫ぶ。
「あんな触っただけのバードキスじゃなく、俺ならうーんと長くディープキスだ
ってできるんだから!」
「まあ、やめとけ、それは」
今にも飛びかかりそうな勢いの翼に若島津は目で背後を指した。
「…大空くん?」
「あー、監督」
そこに立っていたのは顔をぴくっと引きつらせた監督。
「…君たちは通常の練習では足りないようだな。トラック10周とその後パス錬
のメニューも最後までやってもらおうか」
こうして全体練習が始まるまで隣のグラウンドに追い出された彼らが、2つの
ゴール前にそれぞれ立ってピッチの端と端からの超ロングパスを送り合っていた
ことは――その楽しげな様子も含めて――公然の秘密である。
end
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