若林はただ目で追い続けていた。
 薄く翳っていく室内の空気。その中でただ一つ動く白い手を。
 意識はそこだけに集中して他に何も考えられなくなってきたようだ。
「若林さん?」
 ふとそんな様子に気づいたのか、こちらに向けられた視線。
 口を開こうとして若林はそれをやめる。
 視線は彼を捉えて、不思議そうに苦笑した。






甘い手






 それは井沢からの突然の電話だった。
「デュッセルドルフ? ああ、来週のアウェー戦で俺も出るが」
 若林は目を見開いた。
「ドイツに来るのか? 大学のゼミ旅行って、いいのか、抜けて」
「もちろんですよ。ここまで来て若林さんの顔を見ずに帰るなんてもったいない し」
 個人の旅行ではないので自由はあまりきかないが、滞在地のデュッセルドルフ でたまたま試合の日程とぶつかると知ってぜひ会えないものかという話だった。 「…なら試合の後で待ち合わせるか。移動はその翌日だから時間はある」
「じゃ俺の泊まってるホテルで、お茶でもどうですか?」
 国際電話で井沢は嬉しそうにそう言った。確かにそう言ったのだ。
「――井沢」
 そして今日。
 試合も勝って機嫌よくやって来たここで、若林は意識を朦朧とさせていた。
 デュッセルドルフの日系ホテルの中、ここは二人だけの貸切だという。
 小さな四畳半の空間。ホテルの建物の中にあるとは思えないほど忠実に復元さ れた茶室だった。ホテルの本館から続く普通の廊下の突き当たりには腰掛とつく ばいがあり、日本人従業員によってここまで案内されてきた若林が指示に従って ここで手水を使っているとその奥から井沢が顔を覗かせた。
 招かれて中に入るとそこには和服姿の井沢がいて若林はまず驚き、次いで見惚 れる。大島紬の袷の着物に羽織を着て畳に座す井沢は、普段見慣れたスポーツ選 手としての印象とはまったく別の静かな空気を身に纏っていた。
「どうぞ、そこに。お楽にしてくださっていいですよ。若林さんにぜひお茶をふ るまいたいので」
「お茶って――!!」
 若林は今さらながら井沢の趣味を思い出す。
「見よう見まねでお恥ずかしいですけど、せっかくの機会なので日本の味をぜ ひ」
「い、いや…俺は……」
 ここまで来ると逃げるにも逃げられない。井沢の趣味とは、この茶道――と、 もう一つ、若林を追い詰めて遊ぶことだったのだ。
「ホテルの人に聞いてみたらここの一式を使わせてくれて、それに着物まで貸し てくれたんですよ。ちょっと年齢的に地味ですかね。似合います?」
 日系企業の多いここデュッセルドルフでは日本人御用達の接待用設備には不自 由しないという。たまたまそういう偶然で、と説明する井沢に若林はこっそりと 疑惑の目を向ける。
 偶然のわけがない。
 若林への電話にしても、あえて思い違いをさせる言い方をしたのだ、絶対。
 なお、見よう見まねと言っているが、実家は南葛市の寺であり母親は確か茶道 の師範だったと聞く。茶道の心得は本格的なはずだ。
「ああ、似合ってるよ」
 投げやりになりつつも若林は井沢の姿に遠慮のない視線を浴びせることは忘れ ない。
「着物ってのは着てる姿もいいが、そいつを脱がせるのも楽しめるだろうな」
「今はまだやめておいてください。お茶が先です」
 さらりと受け流して井沢は点前の手順を続ける。
 水差しの前に三角形を形作るように棗と茶碗を置く。建水を置いて次いで柄杓 を蓋置の上に置く。茶碗と棗を移動して帛紗で清める。
 一つ一つの所作が静かにそして的確に時間と空間を刻んでいく、その一連の流 れ。
 それを見守りながらまた若林が口を開いた。
「…ここは俺たちだけか?」
「ええ、貸切ということは人払いも完璧ですよ。ここは企業の色々な秘密の会合 にも利用されますから」
「そいつはいいな」
 何がいいのかには触れず、若林は井沢の手元からその襟元に目を移した。
 井沢の長めの髪は点前の邪魔にならないようにか、後ろで一つにまとめて襟足 のやや高い位置に結ばれている。その下に覗くいつもは見えない首筋が眩しく目 に映ったようだ。
「どうぞ」
 すっと茶碗が手前に来て、若林は急いで目を戻した。
「…俺は茶の作法なんぞ知らんからな」
「気にしなくていいです。おいしく味わっていただけば」
 まあもっともらしく茶碗を両手で持って薄茶を飲む。
 おいしく…。かどうかは若林はコメントを避けたが、この茶会自体は十分に味 わう気でいる。井沢と二人きりの異空間というわけだ。
「お服加減はいかがですか?」
「ああ…まあ、な」
 結構なお点前で…とか何とか言うべきだったかなと頭の中で思いながら若林は 適当に応じる。
 そもそもここに至るまでの点前がかなり長く、体がかちこちになってきてい た。特に足。痺れる以前に無理な体勢のせいで痛み始めている。若林は会話より もそちらに意識が飛びがちになっていた。
 井沢はほのかに微笑んで茶碗を戻した。若林に求めても無理な部分は自分でど んどん進めるつもりのようだ。
 居前に戻り中仕舞いをといたところで一礼し、湯を汲み茶碗に入れ、すすいで から湯を建水に捨てる。茶碗を自分の膝前に置いて仕舞いの挨拶。
「お仕舞いにさせていただきます」
 という井沢の声にまた何と返していいのかわからないまま、若林はその先の手 順をぼーっと見守る。
 片付けようとしているのかそれともまだ何かが続くのか…。
 体の緊張と痛みが支配する中、若林はただその動きだけを意識する。
 茶道具を手に取り左右に持ち替え下ろしまたかかげる。帛紗を構えて折り、畳 み、その上を指がたどる。
 若林はそれをただ目で追い続けていた。
 薄く翳っていく室内の空気。その中でただ一つ動く白い手を。
 意識はそこだけに集中して他に何も考えられなくなってきたようだ。
「若林さん?」
 ふとそんな様子に気づいたのか、こちらに向けられた視線。
 口を開こうとして若林はそれをやめる。
 視線は彼を捉えて、不思議そうに苦笑した。
 井沢は道具を置きその手を止めるとすっと背筋を伸ばす。
 止まった動作にただ流れる静寂。無言の間もその一連の動作がさまざまな言葉 を物語っていたのだと、今気づく。
「…あ」
 若林は再び声を上げようとしたが、その前に井沢が一礼した。
「ありがとうございました」
「…ありがとうございました」
 その声に若林は急いで自分も繰り返して頭を下げる。そして顔を上げると井沢 がようやくいつもの顔に戻っているのを見た。
「じゃ、行きましょうか」
「え?」
「ここじゃ若林さん盛り上がらないようだし」
 井沢はにこりと笑ってみせた。
「いつもならとっくにガオーッて襲い掛かってるところなのにね」
「……ガオー」
 しおしおとうつむいて口の中でつぶやいてみる。確かに、最初の期待感はいつ のまにか違うものに変わっていってしまったかもしれない。
 若林はぱっと顔を上げて出口に立っている井沢を見上げる。
「いや、違う。もっとこう…違うお前を見てるのが良かったんだ。けっこう…い や、すごく」
 井沢は笑顔のまま目を見開いた。
「それはどうも。嬉しい誤算ってやつですね」
「誤算?」
 問い返そうとした若林に井沢は懐からカードを差し出した。
「これ、部屋のカードキーです。よかったら使ってください」
「はあ?」
 このホテルの、部屋をとってある? 呆然と若林はカードに書かれた部屋番号 を見つめた。
「お前、ゼミ旅行のグループで泊まってるんじゃ…」
「ええそうです。ただ、仲間は今頃帰国便に乗る頃です。俺だけ勝手を言って抜 けさせてもらったんです。居残りだから部屋は新しくとりました」
「おい、話が違わないか…」
「じゃあ俺は先に部屋に行ってます。荷物をちゃんと移動してもらってるか見て おかないと」
「こら待て、井沢」
「歩けるまで待ってますよ。ただし朝までにお願いします。若林さんこそ、明日 ちゃんとチームに戻らないと大変でしょ」
 姿を消した井沢の後を追おうとした若林は見事に失敗した。畳の上にごろんと 思い切り転がってしまったのだ。そう、痺れてしまった足にはまったく感覚がな い。また、それが戻って来たら来たでかなり悲惨な状況になりそうだった。
「うう、バカヤロウ…手の込んだ仕掛けをしやがって。井沢、覚悟しろよ」
 下心が勝つか、足の痺れが勝つか。
 井沢の言う誤算が何を意味したのかを若林が知るのは夜も更けてからという 話。

end