8823
南の島の乾いた四辻からそれはスタートした。
バスを降りたその場所で、早田は携帯を耳に当てる。
「で、どっちに向かうんや」
(南。石垣のあるほうの道へどんどん)
「ゆるう下り坂になってるで、この先」
(それでええ)
午後を少しまわっているものの、南を向けば暑い日差しが直接顔に当たる。早
田は帽子のつばをくいっと前に引いて道を進んだ。
(そろそろ見えるやろ。右手に、ちょっと傾いた木の電柱)
「ああ、あれか。あるある」
(そこから道路を逸れて、畑のフチを藪沿いに)
「え〜、エライ草が深いで。ホンマにこの道か? 道にもなってへんやないか」
(おうてるて。そこ、畑が終わったら石の段があるはずや)
「これやな。ホンマ草で見えんとこやったで)
早田は3段ほどの石段を飛び降りた。ふっと日が翳って空を見上げる。太陽は
そのまま青空にある。翳ったのは、そこに生えていた木々にさえぎられたせいだ
ったのだ。
(あとはまっすぐや。その先、両側が石の崖にはさまれて狭もなってるし、間違
えへんやろ)
「おい〜、ここ人の通る道やないで、ホンマ。足元ゴロゴロや」
(そや)
携帯の向こうの声は笑いを含んでいた。
(ホンマにそこは人の場所やない。そやからおまえに頼んだんや)
「……」
早田はキッと行く手を見据えた。空いたほうの左手で岩壁を伝うようにして足
を速めていく。
少しずつ下っていた道筋は、そこでいきなり緩い上りに変わった。
「なんや? …音が聞こえる。この先やな」
早田はついに駆け出した。足元に気を配りながら、先へ、先へと気持ちが急
ぐ。帽子がいつのまにか脱げ落ちてしまったことさえも気づかずに。
日陰を作っていた木が途切れた。両側をふさぐ岩壁も。
そして突然、早田は小さく叫び声を上げた。
いきなり開けた視界。
そこには、ただ、海と、空が、いっぱいに。
「すごい…」
そこは高い崖になった岬の突端だった。入り組んだ海岸線のせいで陸の側から
は完全に隔絶されている。だから、正面に見えるのはただ海と空の青ばかり。
(見えたか、まこ)
どれくらいそうしていたのか、早田はその声に我に返った。
「見えた。そして、聞こえる…」
早田はゆっくりとその光景を見渡した。
「これやな、おまえが聞きたかった音。空の上を風を切って飛ぶ音や。ホンマ
に、鳥になって聞くみたいな音や」
(おおきに)
「…アホ」
早田は空を睨み上げた。
「おおきにやない!」
(まこに聞かせたかってん。俺の代わりに)
「おまえが! 自分で! 聞け!」
(泣いてんのか)
「泣いてへんわ、オノのアホ!」
ただ広く、そしてまぶしく、風は吹き抜ける。青い世界を切り裂いて。
(ハヤブサやろ。な?)
「…うん、そやな。ハヤブサや、まるで」
早田は顔を上げた。ずっと耳に当てていた携帯をゆっくりと下ろし、全身にそ
の風を浴びる。
それから、早田は再び手の中の携帯を見た。
画面には「8823」の文字。再生は終わっていた。
「これでハヤブサやて。ホンマにあいつはアホや」
早田はくるりと海に背を向けると、元来た道へとゆっくりと歩き始めた。途中
で帽子を拾い、草深い道をたどって最初の四辻に戻る。
次のバスが来るまで、まだかなりの時間があった。
早田は誰も通らない四辻に立って、やや傾き始めた太陽を見上げ、また少しだ
け涙をこぼした。
end
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